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大内浩物語
■■■ ぼくのこれまでの半生 ■■■
●昭和52年3月 宮城県河南町立広淵中学校卒業
田んぼの中の学校で、一応当時は1学年60人弱で2クラスありました。過疎化の中で今では統合され廃校になってしまいました。
僕の家の前を通るバスも当時は1日5本くらいあったのですが、今は廃線となっています。学校では生徒会長、野球部キャプテンでした。
●昭和55年3月 宮城県石巻高等学校卒業
石巻高校は僕の田舎から通学可能な中で唯一大学受験に繋がる地方伝統校です。
ちなみに交通機関がないので自宅から13キロメートル毎日自転車で通いました。冬の強い向かい風の時は片道2時間以上かかったものでした。
●昭和55年 4月 筑波大学医学専門学群入学
共通一次試験(当時)の当日、インフルエンザにかかってしまい40℃の高熱の中で朦朧としながらの受験でした。
筑波大は当時では珍しい6年間一貫した医学教育がなされることをうたった学校です。
5.1倍の狭き門でしたが現役で合格することができました。
当時、僕は完全なズーズー弁だったので、受験の面接対策にNHKのニュースを見て日本語を勉強したものでした。
学生時代は勉強もよくしましたが、野球部では全日本医学部野球大会で優勝したときキャプテン、キャッチャー、1番打者として活躍しました。
関東医科リーグ戦では1年秋から4年春まで5季連続盗塁王の記録もあります。
医学の本は高いので、学費稼ぎに家庭教師や土方のアルバイトもよくしました。無免許ながら大型ダンプで砂利を搬送したりしていました。
●昭和61年3月 同 卒業平成 9年 1月 筑波大学医学博士号取得
テーマは【開心術における同種血輸血節減のための方法とその効果:成人及び小児例での検討。】です。
当時心臓手術した患者さんの4人に1人は術後輸血後肝炎にかかっていました。そのため、なんとか輸血を減らす方法がないものかと、国立循環器病センター当時からとりくみ、
筑波メディカルセンター病院、神奈川県立こども医療センターまでの7年間をかけ、臨床研究を重ね、博士論文としました。現在では術後肝炎にかかる患者さんは極めて稀になっています。
職歴
●歴昭和61年4月 筑波大学付属病院外科レジデント(研修医)
母校で、外科の基礎を総合的に学びました。一般的な外科以外にも麻酔科、小児外科、形成外科、脳外科、整形外科なども有意義な研修をさせていただきました。
●昭和63年5月 国立循環器病センター心臓血管外科レジデント
国内で、心臓血管外科の研修をするなら、ここしかないと医者になった当時から志望していました。全国からの希望者も多く3倍の競争率でしたが採用していただきました。
給料は12万円と安かったのですが、文字通り病院に泊り込むレジデント生活だったので、3年研修終了時には200万円以上貯まっていました。研修終了時にはファロー四徴症、
や連合弁膜症再手術などの術者もさせていただきました。
●平成 3年 5月 筑波メディカルセンター病院心臓血管外科医員
●平成 5年 4月 筑波メディカルセンター病院心臓血管外科診療科長
現弘前大教授の福田幾夫先生とともに仕事させていただきました。手術もさることながら患者さん、仕事、同僚などへの真摯な取り組む姿勢など多くのことを学ばせていただきました。
このころ外科専門医、心臓血管外科専門医を習得しました。
●6年10月 神奈川県立こども医療センター胸部外科医員
●7年 4月 同 医長
多くのこどもと接しました。心房中隔欠損、心室中隔欠損、ファロー四徴症、動脈管開存など小児の基本的な心臓手術の術者や、完全大血管転位、単心室等の複雑心奇形の助手
術後管理を担当しました。小児でも無輸血手術を目指すべく種々の努力を行い、最低体重は6kgまで無輸血可能となりました。学位論文をこのころ完成させました。
●8年10月 埼玉医科大学第一外科講座講師
成人の心臓病や血管疾患を中心に担当しましたが、一番若いスタッフということもあり、多い月では1ヶ月に15日も夜間緊急手術を行ったことがあります。
学生の講義や病棟実習も担当するようになりました。大学ですので学会活動も忙しく、1週間のうちに台湾、弘前、福岡と飛び回ったこともあります。このころ結婚したのですが、
あまりの忙しさに身体的にも精神的にも余裕がなく妻には大変迷惑をかけました。
●12年1月 ハーバード大・マサチューセッツ総合病院心臓外科研究員
世界最先端のアメリカで勉強させてほしいとボストンに留学しました。研究テーマは、移植後の拒絶反応を抑制するための手術術式の開発です。
日々、ネズミを相手に移植実験の顕微鏡手術を行いました。成果はTransplantationという一流雑誌に掲載されました。週末は実験もなく、旅行や買い物と家族と多くの時間を過ごせ、
とても有意義な時間をすごせました。
●13年9月 埼玉医科大学総合医療センター心臓血管外科講師
●14年7月 横浜市立港湾病院心臓血管外科診療科長
新しく心臓外科を開設するために大学から派遣され赴任したのですが、当時の中田市長が廃院を決めたため1年で病院がなくなってしまいました。
改革流行の政治の時代にもろに影響を受けてしまいました。
●15年8月 戸田中央総合病院心臓血管外科部長
なくなる心配のない、経営の安定した第一線の民間病院での勤務を希望し赴任しました。部長として、5年間で約1000人の手術患者さんを診させていただきました。
このころ、より多くの方と関われる、クリニック開業を決意しました。
●21年11月 佐々総合病院副院長
西東京市の佐々総合病院が戸田中央グループに参加するに当たり赴任し、病院経営のお手伝いをしました。
●22年7月 戸田の杜クリニック開院
14人のスタッフとともに、0歳から100歳までのホームドクター、地域の皆さんとの共生を基本理念に新たな人生のステートです。