埼玉県 戸田市 内科・小児科・循環器科 グリーンフォレスト戸田 戸田の杜クリニック

院長紹介

院長 大内浩

大内浩物語

■■■ 僕の闘病人生!? ■■■
僕は病気や怪我の名人です。 早くは生後1週間で中耳炎になりました。その後滲出性中耳炎に移行し中耳炎は小学校3年まで良くなったり悪くなったりの繰り返しでした。聴力がほとんどなくなりピンチだったこともあります。 この病気は息子にしっかり遺伝しています。

保育園時代、おしっこするのが痛くてたまらなくなり、尿道炎で泌尿器がよいしたことがあります。ミミズにおしっこをかけて(笑)チンチンの先がはれ上がり(亀頭包皮炎)苦しんだこともあります。

小3では肺炎で2週間以上の入院も経験しました。美人の看護婦さんに毎日静脈注射(当時50mlの注射器で1日2回ありました)をされるのが妙に嬉しかった記憶があります。

保育園から高校にいたるまで、僕以上に風邪で欠席する人は見たことがありません。少ない年で20日、多いときは40日ほど休んでいたのです。流感はひと冬に2回かかるのが当たり前で、 今でいえばA型とB型のインフルエンザに両方かかっていたのでしょう。風邪の流行はヒロ(僕のニックネーム)から始まりヒロに終わるといわれたものでした。大学入試の共通一次試験当日も インフルエンザにかかり40℃の意識朦朧の中試験を受けました。

成人しても、花粉症で手術中呼吸ができなくなったり、なぞの全身の湿疹がでたり、頭痛もちで連日薬内服の日々が続いたり、手術中に急に全身が痛く動けなくなりそのまま入院し、原因不明の全身の 筋膜炎の診断ででステロイドを3ヶ月間服用したこともありました。
あるときは、救急外来で診療中に世界がぐるぐる回りだして嘔吐しそのまま患者に早変わりして入院。発作性頭位変換性めまいの診断でした。

野球としていたときはキャッチャーというポジションがら、外痔核に悩まされました。しょっちゅう出血の苦しみを味わいました。あのころウォシュレットがあったなら人生が変わっていたかもしれません。 そうそう、運動部につきものの水虫やインキンタムシも学生時代には悩んでいました。

外傷編では、野球をずっとしていたこともあり、尽き指、脱臼、捻挫はあたりまえの日々でした。当然、野球肘にもなり筑波大整形外科で診療していただきました。足の巻爪があるためスパイクを履いて 長時間練習した後は親指はいつも腫れていました。足底筋膜炎という持病もあり(マラソンの高橋Qちゃんと同じです)長距離を走った後は痛くて痛くて・・・。
田舎で育ったため、ミツバチやくまんばちにに刺されるの日常茶飯事で、姉とバドミントン中に急にスズメバチに頭頂部を刺され、そのまま救急搬送されたこともあります。

アメリカ留学時代には娘にお馬さんをやりすぎて、膝がパンパンに腫れ歩行不能となり、マサチューセッツ総合病院の救急に女房に担ぎこまれたこともありました。
ぎっくり腰は30~35歳に4回やりました。その後腹筋背筋運動を毎日かかさず行うようにしてからは再発せずに済んでいます。頚椎の椎間板ヘルニアにもかかり、上肢が痺れるため半年ほぼ上を 向けなくなった時期もありました。

胸郭出口症候群も持っています。これは上肢を挙げて広げると肋骨と鎖骨で血管が圧迫され手の血行障害を起こすというものです。これにかかってから手術は大分不自由になりました。

最近は50肩に半年以上苦しみようやく治ったばかりです。
こんな僕ですので、患者さんの気持ちはすこぶる頑丈な医者に比べれば理解できるつもりです。